第2話 犬の話
その日以来、僕は犬が怖くなくなったんだと思う。
夏休みの入る少し前だった。学校の帰り道にある農家の垣根の向こうに、小さい蜜柑の実がたくさんなっているのに気がついた。つい最近まで白い花が咲き、ほんのり甘い香りを通学路に漂わせていた木。よく見るとまだ小指の先くらいの大きさの濃い緑色の実が数えきれないほど光っていたのだ。
僕は、理科の時間に習った植物の花と実の関係の事をすぐに思い出し、あの花の一つ一つがあっという間に蜜柑になったんだと、それを僕自身が発見したんだと、ちょっと得意な気持ちになったのを覚えている。
その場に突っ立ち、ややしばらく蜜柑の木を見つづけていた僕に、ネコ車を押してきたその農家のおじいさんが声をかけた。
「何年生だ?」
「五年生」
「何か珍しいもん、見つけたか?」
「あれ…蜜柑?ですか?。」
「あれは、酢橘(すだち)だ。酸っぺぇぞ」
そう言って笑うおじいさんが、ネコ車を押して進んで行った先に犬小屋があった。
それは、マンガで見るような赤い三角屋根にアーチ型の入口、白いペンキ塗りの犬小屋ではなく、陽に焼けた杉の板が真四角に組まれた無骨な箱という印象のもの。四隅の柱で地面から10センチほど宙に浮いていた。屋根の青い波板は、奥に向けて少し傾斜した片勾配で、正面側はほとんど開口しているシンプルな作りだった。
中には茶色い犬がいた。柴犬だったろうか?今思い返せば、そんなふうにも思えるけれど、当時の僕は犬の種類なんて全く興味は無かった。ただ、犬らしい犬とでも言うか、特に特徴の無い種類の犬だった事は確かだ。自分の後ろ足にあごをのせて丸まって腹ばいになり、上目遣いに近寄ってくるおじいさんを見ていた。
おじいさんが「ホレ、外出てろ」と言って首輪に繋がれたロープを少し引っ張ると、犬は慌てて小屋から飛び出し、前足を揃えて前に伸ばし、背中を弓形(なり)に反らせて伸びをした。
おじいさんは小屋の中の萎びたような稲藁を竹箒でかき出し、代わりにねこ車で運んできた新しい藁を敷き詰めてやった。
犬はしばらく、小屋の新しい藁とおじいさんを交互に見て、そう嬉しくもなさそうに再び小屋の中に入った。足の置き場を探るように二周ほど回って、またさっきと同じ姿勢に戻ると、今度は僕の顔を覗くように見た後、ゆっくり目を閉じた。
おじいさんはねこ車を押して農機具が置かれてある作業小屋の方に戻って行った。
あの犬はあれから何年か生きていて、僕も何度か小屋を覗きに行った。特に吠えるでもなく、かと言って喜ぶでもなく、いつも退屈そうに上目遣いにしばらく僕を見ていた。結局、頭を撫でる事もなく、農家の人に名前を聞くこともないまま、僕は中学生になり、やがて大人になった。
未だに犬を飼う機会は訪れないが、少しも憧れがない訳ではない。庭付きの家を持つ事があれば、きっとあの農家のような、四角い犬小屋を作りたくなると思う。そして無愛想な茶色の犬を飼うことになるなずだ。